尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏(71)が、4月から小学校で「道徳」が教科化されたことについて、「時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか?」と疑問を投げかけた。尾木氏は13日放送の日本テレビ系「シューイチ」に出演。正式教科となった道徳の授業について解説した。授業では国の検定に合格した教科書によって22項目の「価値」が教えられられるという。
正式教科となったことで、従来とは違って評価(成績)が必要となり、道徳観についての「正解(結論)」が用意されるため、「結論があるわけですから、(生徒たちは)思ったことを自由に言い合えないという矛盾が出てくる」と問題点を指摘。
さらに、求められる「答え」を予想することで“良い子”を演じる生徒が増えることも懸念した。
尾木氏は14日のブログでも道徳教科化に言及。「そもそも道徳的価値を国家が決めるなんて時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか? 22もの価値を【議論する】なら意味があると思いますが 正しい価値を教えて それを理解し改善・実行の努力をしているかどうかを教師が評価する 成績を付ける これってありなんでしょうか?」と問題提起した。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180514-00208386-nksports-ent
みんなのコメント
あと、道徳的な思考力や判断力が高まったかを文章で個人内評価するのであって、
考え方を植え付けるようなものではない。
もちろん、生命への畏敬の念とか、家族愛など普遍的な価値は、教える(気づかせる)けど・・・。
どちらかというと、この場面ではどのようにすると道徳的かを皆で考えるようなイメージ。
場面・場面に行動や思考の正解なんて用意されません。
実は、教科化になろうと、以前と比較しても、そこまでの内容項目の変化はない。
とはいえ、それだけでも、教科化は大きいことであり、現場の教師は必至に研修している。
尾木さんのように、教育評論家と名のつく人が、事実と違うようなことを根拠に意見を述べると、誤解を生む。
もう少し責任を持った言動を望む。
それは思想や言論を誘導するという、道徳や倫理を持ち出すうえで一番やってはいけないことをしてしまっている。
何様?学校はそういう場ではない。
道徳的なものは、教室で共に過ごし共に問題に取り組み学びあう中で見いだすものであり、誰かに指導され評価される類のものではない。
「人を傷つけてはいけない」みたいなのは、”人それぞれ”ではなく、議論の余地なんてないのよ。身に付けてもらわなければ困ること。
問題は誰がそれを教えるかって話だけど、普通は家庭教育でやるもの。だけど、それだとばらつきがでるから国で担保しようって話でしょ。で、国家でやる以上、到達度を測る指標が必要になる、と。
国家(=社会)で教えずに、家庭ごとの自己責任となると、道徳教育がなされなかった人の対処が面倒だと思うんだよな。
都道府県?市区町村?校長?担任?
教える人や地域で正解が違うなんて最悪だよ。
国家斉唱で起立しない先生が道徳の良し悪しを決めるの?w
ある程度の道筋は国が決めないと。
道徳教育が必要。
ただし、突飛な考え方は除外。
道徳の評価
1)道徳科において養うべき道徳性は,人格の全体に関わるものであり,数値などによって不用意に評価してはならない
2)道徳性とは,人間としてよりよく生きようとする傾向性であり道徳的判断力,道徳的心情,道徳的実践意欲及び態度の内面的資質である。道徳性が養われたか否かは,容易に判断できるものではない。小学校の段階でどれだけ道徳的価値を理解したかなどの基準を設定することがふさわしいとは言えない。
4)数値による評価ではなく,記述式であること。・他の児童との比較ではなく,児童生徒がいかに成長したか、励ます個人内評価として行うこと。・他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまない。
指導要領は、充分配慮してあり、道徳的価値を国家が決めるということはないと思う。100ページ越えの学習指導要領解説を尾木先生は、実際に見たのかな?
特殊詐欺など横行している現状から考えると
効果はともかく
道徳教育なるものは必要では。
道徳教育だったら個人的にはオレは嫌だな。
今は違うの?
そうそう居ない気がするけどね
それに点数にするようなもんじゃないと思う
一般道徳って、家庭生活と学校生活で自然と身に付くものじゃない?
道徳観の差異が生む弊害があることも
その弊害を呑む度量が現代社会にないことも事実だからな
授業でやることが国家が決めると言っているところが危ない!
教師だって生徒だってそれが正しいか考える。
考えることが重要。
ブラックジョーク。
笑える。
道徳で「1」をつけた先生が、盗撮で逮捕されたら、文科省は何て言うのだろう?
現に盗撮して逮捕されている先生はたくさん存在しますよねえ。
特別な教科道徳については,尾木先生のように教育の専門家の中でも意見が分かれるもの。それを,教科化すること自体首をかしげざるを得ない。決まった以上,教育現場は対応するのだろうが,混乱が予想される。
評定しないと言っても,評価はするわけだから何らかの指針が欲しいところだけど,文科省はそれすら現場に丸投げ(「見本が一人歩きするため」のような逃げ)しているわけだから困ったもの。
予想されることとして,現場や先進校が行った評価を取り上げて,これは好ましい(「良い」とは言わない)例,これはふさわしくない例(「悪い」とは言わない)などど,後出しじゃんけんをするのだろう。
現場はたまったものではない,総合的学習の評価で混乱したことが,今度は道徳でも起きると思うと,学校がかわいそう。
評価はしない方がいい。
そりゃ誰だってテストには電車でお年寄りに席をゆずりますと書くでしょう。それを実行してなくてもね。
許容範囲内であれば正解として、評価もすればよいと思います。やり方次第だと思います。
しかし22項目があって評価をつけるというと変な感じがする
現場としては必要なのでしょうかね
大日本帝国でもあるまいし、共有できる最低限の道徳的価値観を国家基準で定めるについて、特に不安は無い。
それは、森友・籠池の教育方針に傾倒した昭恵を見れば一目瞭然、あの出来事が全てを物語っている。
安倍、つまり日本会議の魔の手がいよいよ迫ってきている、ということだ。
安倍および日本会議は戦前回帰をもくろみ、子供たちに自分らの価値観を植え付ける洗脳教育をしようとしている。
奴らの目的は、国家神道を復活させ、日本国民を臣民化することだ。
臣民とは、一般に君主国において君主の支配対象とされる者をいい、日本では、大日本帝国憲法下における皇族以外の国民を称し、天皇への絶対的服従が臣民としての規範となる。
つまり、国家および天皇に、何時如何なる時でも自らの命を捧げることを厭わない家畜民を「臣民」というのだ。
今黙っていたら、気が付いた時には、日本国民は国家に逆らえない家畜民と化しているぞ。
どうするんだろ