100回目の夏は、熱かった。大阪桐蔭と秋田・金足農。特色ある両チームによる決勝で、史上最多56校によるドラマは幕を閉じた。100年を超える歴史の中でも、突出した伝説的大会といえば「松坂世代」による第80回大会が挙げられる。
松坂大輔投手(37=中日)擁する横浜は、1998年に春夏連覇を遂げ、公式戦を無傷の44連勝で駆け抜けた。
昨年4月に始まった、高校野球長期連載「野球の国から~高校野球編」のフィナーレは「松坂世代の絆」。激闘を繰り広げた「松坂世代」を取材することで、高校野球の魅力をあたらためて探る。【取材・構成=四竈衛】
「One for All」
帽子のひさしに書き込んだ通り、自分を支えてくれた全員のためにも、松坂は心を尽くして、最後まで腕を振った。
1998年夏、京都成章との決勝戦。9回表2死、こん身のスライダーを投げ込んだ。空振り三振で試合終了。
決勝では59年ぶり2人目となるノーヒットノーランの快挙で春夏連覇を遂げた松坂は、その瞬間、マウンド上で全身をクルリと反転させた。背後に笑顔を向け、両手を突き上げる姿は、バックを守っていた仲間全員を迎えるかのようだった。
松坂に始まり、松坂で終わった1年-。
後に「松坂世代」の呼称が定着したとはいえ、松坂は決して孤高の存在ではなかった。歓喜の輪の中央にいても、あくまでも17歳の高校球児だった。
「全員が同じ方向を向いていたと思います」
それこそが、「One for All」の精神だった。
◇ ◇
あれから20年。テスト入団した中日で復活勝利を挙げ、第一線に戻ってきた松坂は、当時の写真を手にしながら、ゆっくりと回想し始めた。「どこまで覚えてるのかなあ」。無我夢中で白球を追い続けた日々…。優勝直後の「反転」も、後に映像で確認するまで認識していなかった。
「確かに濃い、濃密な3年間だったんですけど、さらに凝縮された1年間だったような気がします。あのテンションで野球をやることはもうないですね。がむしゃらに、息つく暇もなく過ぎた1年間。休めた記憶がないというか、ずっと走り続けたというか、走り通せた1年間でした」
その凝縮された98年。横浜は、史上5校目(現在は7校)となる春夏連覇、さらに秋の国体も制し、新チーム結成後の前年秋以来、公式戦を無敗の44連勝で駆け抜けた。100回の歴史を持つ高校野球で「史上最強」と評されるほど、群を抜く強さだった。
「記録としてはすごいことかな、とは思いますが、あまり実感がないのが本当のところ。僕らは勝って終われましたけど、断然、しんどかった時の方が多いですよね、明らかに」
輝かしい実績ばかりがクローズアップされる半面、松坂のまぶたの裏には、地獄のような猛練習の光景しか残っていない。
「2年の夏(県大会準決勝)に負けて、新チームになって1カ月は本当にきつかった。走った記憶しかない。ほとんどの試合は、相手も覚えてない。やったあ、試合だ、休めるぞ、でしたから(笑い)。しんどい練習から解放される2~3時間が幸せな時間。そういう感覚でした」
その一方で、過酷な練習を耐え抜き、着実に力を蓄え、確かな自信を築くことで、全国制覇という目標が、より明確になった。
「秋は格段にスピードも上がったし、あれだけ練習したんだから負けるわけがない。こんなに練習したチームはほかにないと信じてました。
調子がいい悪いとか、考えたこともない。メンバーも信頼していたし、練習通りのプレーができれば負けることはないと思ってました。
ただ、監督さん(渡辺元智氏)には、ずっと言われてました。強いチームが勝つんじゃない、勝ったチームが強いと。お前たちはまだ勝っていない、と言われてました」
前年秋の明治神宮大会、翌春の選抜を制した横浜は、夏の県大会の時点で、全国から目標にされていた。
「打倒横浜、打倒松坂、というのは耳に届いてました。でも、楽しみしかなかったし、何の不安もなかった。正直、県大会は必死にやってないです。県内はぶっちぎりで勝つくらいじゃないと、連覇はないと。
甲子園で優勝することしか考えてなかったです。人によっては油断と取るかもしれないですけど、そんなつもりもサラサラない。県大会で苦戦していたら、甲子園でPL学園とかに勝てないと思ってましたから」
下馬評通り、神奈川大会を制した横浜は、甲子園でも順当に勝ち上がった。迎えた準々決勝。相手は、松坂自身が最大のライバルと評していたPL学園。その時点で、決勝までに劇画のような3試合が待ち受け、激闘の末に「松坂世代」というフレーズが生まれるとは、誰も予想していなかった。(つづく)
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180823-00307936-nksports-base
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