◇巨人・高橋監督が辞任
忸怩(じくじ)たる思いで辞任を申し出たのだろう。夏場以降、眉間のしわが深くなり、やつれていく様が見て取れた。
試合前のベンチで私と会えばジョークの一つも交わしてきたが、9月以降は私の肩を叩くだけだった。何を話しても言い訳にしかならない険しい表情だった。
15年オフ、兼任コーチの肩書こそあれコーチ経験のないまま監督に就任した。慎重な性格の男が大役を引き受けたのだ。勝算はあったはず。
「マスコミとか大変だろ」との質問に「誰かがやらないと」と割り切っていたが、戦力を冷静に把握する時間は少なかった。プロ・アマ球界を含め、人脈を築く余裕もなかった。
94年の慶大入学時から取材してきた。2学年上の高木大成氏(元西武)を手本に東京六大学の本塁打記録を樹立。
当時はアマトップ選手が希望球団を逆指名できる制度ながら「過度の注目を浴びたくない」と西武入団に傾いていた。だが97年秋の逆指名会見前夜、千葉県出身で同郷の長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)を敬愛する父・重衛さん(故人)の一言で、いばらの道を決断した。
98年巨人入団後は打点王2度の広沢克実氏がライバルだったが、キャンプ初日でのフリー打撃と外野守備で勝負はついた。
その後は松井秀喜氏(ヤ軍GM特別アドバイザー)と切磋琢磨。松井氏のヤ軍入り後は小久保裕紀氏(前侍ジャパン監督)らとBクラスに低迷したチームを支えた。
ただ人望の厚さに加え、図抜けた技術の持ち主ながらタイトルを目前にするとフェンス激突→長期離脱するなど、運はなかった。それでも「なぜいつも全力プレーなの?」と意地悪な質問には「チームのためです」と即答していた。
現役引退を早めての監督受諾は、チームが現役選手による野球賭博に揺れ、人心一新を迫られたタイミングでもあった。
球団は先輩の松井へ監督就任へラブコールを送ったこともあったが「一度外に出たボクより、まず由伸」と言われ“外堀”を埋められた。
とはいえ引き受けたからには、プロ野球のリーダーたる巨人軍監督として全精力を注ぎ込んだ。今季は岡本だけでなく、機動力を兼ね備えたチーム像を描いていた。それも故障者続出で霧散した。
「3年間、優勝から遠ざかっている」現実はそれまで歩んできた自らの野球人生にとって我慢できなかったはず。周囲は「損な役回り」と思うかもしれないが「結果が出なかったら考えます」と話していたように、本人は覚悟の決断だった。(元アマ野球、元巨人担当 伊藤 幸男)
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181003-00000159-spnannex-base
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