横隔膜を圧迫して呼吸を浅くして運動前は最悪の姿勢です。→「教育の場で話を聞くことより、姿勢を維持することに焦点が置かれすぎている」「体育座り」は悪影響が多い? 生徒から廃止求める意見、改めた学校も (山陰中央新報) https://t.co/kdWEFyB93A
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) May 7, 2022
ネットの反応
私が中学生の時に、女子の先輩から「体育座りは恥ずかしいのでやめるようにしてほしい」という要望が生徒会を通して出されたことがあった。
当時の教師によって理由の説明もなく却下されたが、要望理由は「体育館などでスカートでの体育座りをすると下着が見えてしまう」「体操着でこれをおこなうと下着の線が見えてしまう」というものだった。今はこのように健康上の理由も含めて議論になるとは、良い時代になったものだと思う。
体育座りを苦痛に感じたことは無かったけど法事の時の正座はきつい。中学生の時に葬式で棺を運ぶ役になったが、お経が終わって直ぐに準備しなければならないのに、足が痺れて立ち上がれず焦った。ギリギリで回復してどうにか役目を果たせたが、動きの遅い自分を見ておばが切れかかっていたのを思い出す。
おっさんになった今は法事でも最初からあぐらをかいているが、若い頃は限界まで我慢していたな。
体型や体質には個人差があるので、どのような姿勢にするかは柔軟に選択できる社会にして欲しい。学校もそうだが個人的には法事の方がもっとどうにかならないかと常々思う。本当はお坊さんもきついんだと思う。
行儀よく、とは目上の人間の見解よね。
年功序列。能力のない人間が能力のある人間より上ってことでしょ、早く生まれただけでえらい。経験値はあって当然だけど能力は人それぞれ。日本の文化だけど本当に「行儀よく」って必要なのかな。
人の話を聞く時もぞもぞしたり座っていられないと怒られる。だから足を閉じてさらに上から手で足を押さえる、なんの気なしにやってきてた体育座りだけど、理屈をこねられる年齢になると矛盾みつけられるね。
逆ですよ、昔はスカートの下に短パンなんか履くのは禁止だったけど、平成以降か知らないけど時代が進んで、必ず短パンかスパッツなり履かないといけない、に変わったんだよ。だから女子も公の場所で足を広げて座ったりして見えても中にはいてるから平気~みたいなのが増えてきて、世間でもイマドキのと話題になってたことあるよね。だからこそ昔は、女子の座り方から立ち振る舞いまで、女の子だから足を揃えて座りなさいとか見えないようにしなさい、とかまともな家庭では躾けられてたはずです。
そんなこんなで今はむしろ見えることはないはず。良いこともあるけど振る舞いも大雑把になったよね。
ってか、そもそもこの体育座り禁止はそんな理由でなくなったわけではないよね、あくまで健康上の理由だから。
腰痛云々はあぐらも良くないんじゃないのかな?崩れたら座り方すると骨盤歪みそうだし。
体育座りが良いとは言わないけど、短時間で、あぐらじゃないと辛いというのは腹筋背筋が弱く、普段から姿勢が悪いと聞いた事あります。
まあ科学的に根拠があるのかどうかは知らないけど、今はなんでも過保護にこうしたらダメ、危険、の発想で海外では~とかも手伝ってそうさせてるだけでそれが正しいかは分からない。しかも一面では正しくても全体では悪影響ってことがほとんどで他のことでもありがち。
よく分からないけど、椅子を用意するかずっと起立させるのかな?椅子だとしたら準備大変だから何らかの式典でない限り準備しないだろうな。そうなると起立のままかな。だとするとそんなに長話も出来ないだろうな。いろいろ考えること増えて先生も大変だな。
というか、、体育座りでスカートのすそをそのまま下につけて座って足を上げればら・・そりゃ中が見えますよ(笑)普通は裾も一緒に持ち上げて手で押さえるでしょ。
それで先生に抗議・・というか、自分で解決できる範囲。。
体育着で下着の線が見えてしまう・・って言うのはもう、体育の授業の動きによってはいつも見えてしまう状況だよね、、?それは体育座りじゃなく体育着反対ってなるよ。なんでも個人的な事情で反対ってのが集まると、つまりルールや決まりに従えないと秩序は乱れますね。
そもそも横座りがとっても姿勢に悪いんだけど、椅子がないと結局、脚崩すためには女性は横座りしないといけなくなる。体育座りが身体に悪いとなれば、地べたに座る場合の、1番楽で、マナー的にも正しい座り方を誰か教えてください。
正座以外で。
それがないならもう拷問みたいな地べた会合はなくしてほしい。
スカートで体育座りなんてしたら、教師に叱られましたよ。はしたないのは勿論、制服で下履きとはいえ靴のいる床に座るなどあり得ないと。逆に体操着の時は砂埃の運動場でも体育座りでした。今思うと地べたに直接座るっておかしいですよね。
わざわざ教室から椅子を持ってきて座るよりは耐えられると思う。教室から椅子持ってくる方がはるかに苦痛。階段とかある教室から運ぶ場合もあるなら更に。
体育座りが問題。いやそれもそうかも知れないが、学校イベントにおいて、どうでも良い話を長々と聞かされることの方が問題だと思います。今回コロナ禍での卒業式。色々と省かれました。中には送辞のように、あった方がよかったなと思うものもありましたが、殆どが、ない方が良かったものでしたね。
例えば来賓祝辞。例年なら、学校では一度も顔を見たことのないおっさんたちが何人も何人も、全く意味のない、どうでも良い話を延々とするのですが、今年は全てなし。それから祝電披露もありませんでした。必要なかったんですよ。
今年は全員が名前を呼ばれ、代表が証書を受け取り、校長の話、答辞、校歌斉唱。これだけでした。
それでも無駄が省かれた分、素晴らしい式でした。生徒のため、本当に必要なものだけを残したらそうなったのでしょう。アフターコロナに於いても、不要なものはなくし、どんどん進化すれば良いと思います。
体にいい座り方があればそれにすればいいと思う。
長い話を聞かされるのは無駄という意見もありますが、必ずしもそうとは思いません。
社会に出ると無駄なことに付き合ったり、我慢しなければならない場面は多々あります。
それを乗り越えられるようにする訓練だと考えれば、ある程度は必要だと思います。
確かに無駄な講話とか多いのは否定しません。
度が過ぎる無駄や惰性でやっている悪習は改善することは子供のためにも先生のためにも必要だと思いますけどね。
子供は、大人の話を聞くのが苦痛、だから人権侵害だと決めつけてるけど、そうかな。つまらない話も多いと思うけど、子供なりに頑張って聞いてますよ。
何時間もスマホやゲームしてるんだから、持久力はある。
聞いたそばから忘れてるってアンケートがあるから無駄、撤廃せよって言うけど、情報過多時代に情報の取捨選択の能力を養うことも必要だよね。
人の話を黙って聞けない人ほど、
引き出しも少ないし、
聞かなければ聞かないほど、
知らないから、余計に興味もわかないというループに。高校大学くらいになれば別として
小中学生なんて、まだまだ
本人の資質や適性や可能性を
本人こそが探す時期ですよ。
だからこそ
色々な場面に触れることが
本人のためにもなる。
私はこういう式典などで話す人の話で、たまには「ふーん」と思うこともありましたし、
挨拶する時の独特の言い回しみたいなのや、式次第のテンプレなどもこういう時になんとなく身につけてたと思います。
だからこそ、後に、イベントの企画や司会のバイトとか、応募もしてないのに仕事もらったりできたのではないかと。誰かにわざわざ教わったことなどないが、皆さんの中にも、見たことの模倣で出来る器用な人はいるはず。
人間、どこで何が生きるかなんてわからないですよ。
確かにね。そもそも、全校生徒を体育館に呼んで、そこで話を聞かせるってシステム自体がどうなのって感じ。AV機器も進歩した昨今、普通に教室でモニター越しに話せばいいじゃんってこと。コロナ禍の今じゃ当たり前になってるだろうし。しかし、私らの頃から考えると、天国のような時代になってきたね。
炎天下の中部活中や体育中の飲水は禁止、寒かろうが暑かろうが何かあればすぐ体育館に集めて地べたに座らせる、先生に反論しようものならすぐ個別に呼び出されて大説教、場合によっては親も呼ばれる、そんな時代から脱却しつつあるね。
子供はそんな場で長々と大人のスピーチ聞いても理解できないと言うけど、ハッキリいえば理解できない子はしなくてもいいし、出来る子がすればいいだけですよ。
人はいろんなことを発信する、情報を伝え合う。それがテレビや本であったり、こういう場のスピーチやYouTubeだったりする。
本を与えても読まない子は読まないですが、ページを開いてみないと中身はわからないのだから、開きもせず、まったく無益だと判定するのは無茶ですよね。しぶしぶ開いて、つまんない!は、当然たくさんあるが
余計だった、いらなかったの方が多いのは物理的に当たり前。
幅広い興味、好奇心がない子ほど
「いらない!」が多いので。
一極集中が悪い訳ではないが、小中学生の形の決まらないうちからそれをほったらかしていいわけでもないし。与える与えないの段階から全部、無駄なく選ぼうとしたら反対に子供が選択機会を逸しますよ。
体育座りである必要はないので
椅子など用意できるなら勝手にすればいいが、そもそも体が痛むのは、運動しても同じことです。日頃使ってない筋肉を使えば、大人でも痛いわ。
腹筋や背筋ないとすぐ腰に来るし、だからって楽な姿勢ばかり取っていれば、余計に筋力が下がります。
草むしりしても足が痺れるし、
子供の相手をしたら屈んでばかりで腰に来るし、
だけど、その度に
イヤイヤ言ってりゃ
なんもできないよね?
やれば、徐々に体もついてくるよね?
なんで、それがわかってて
子供のことになるといきなり
やたらめったら
過保護になるんですかね。
会社でも同じようなことがあった。朝礼夕礼がコロナ禍でやらない事になり、月初めの全体朝礼や訓示などはリモート参加になり業務効率が飛躍的に向上した。
コロナ禍後も継続するよう具申していたが残念なことに一部の上司はこれを復活させこれがマネージメントだ、とかいきがっている。なかなか改革は進みませんね。
>効率が非常に悪く、理にかなっておらず、それを伝統と呼ぶ。それこそ100年もない慣習がほとんどだしね。
自分が生きてるうちに経験しただけのことを「伝統」というのはいかがなものか。
子供たちに対しての管理もそうだけど、必要以上に従順さを求めている気がする。
だから胡座だと生意気に見えて嫌なんでしょう。
要は全部年長者の気分・感情を満足させるためにやっているものが多すぎるんだよ。
そういった感情優先の合理性無視や、年長者の意見ばかりが絶対視される、日本の在り方そのものをきちんと見つめ直せないと根本から変わっていかないと思う。
その通りだとは思いますよただ、人の長い話を聞くのが、人生において絶対的に無駄かというと、そうも言えないと思う。
自分が聞きたくないタイミングで聞かされ、しかもすぐに役立つ内容でもないから無駄だ無駄だと言うのだろうが、それは効率的な意味の無駄であって、
例えば「このオッサン滑舌悪いな……」「起承転結がないな…」「紙に目を落としたまま話すと訴求力が落ちるな」「この人の話し方、子供に媚びてて胡散臭いわ」「さっきの話の下手なオッサンが区長で、このおもろいオッサンは県議会議員か。なるほどね」
子供は(大人も)その年齢に応じて、生身の人を見て人を見る目も養うものですし、スピーチの仕方もそういう場面でなんとなく、学んでるんです。
それこそ実学でしょうに。
それを学校でやらねばならない理由はないが、親がそんな機会を与えられるかと言うと、今の親は自分自身付き合いが狭いから無理でしょ。
確かに体育座りってお尻の骨が痛いから、ちょっとずつズラしたりもぞもぞしてた気がする。昔に自分の学校ではたったままの休めの姿勢だとか変なものもあった。今思うとナニコレルールが存在してた。とにもかくにも長ったらしい話なら、コロナ過で普及したけど教室でテレビで配信して聞かせればいいと思う。
理不尽なことが時間をかけて減っていくことは良いことだと思う。
昔の人を思い本当によく我慢できたなと思う一方、今は何とも感じないことが将来理不尽と受け取られる可能性があるのだと思う。ただ、規律ある集団行動の練習は必要かと思う。
災害が多く徴兵制がない日本では、集団行動は家庭やリモートではできない重要な学びだと思う。当事者は理不尽なことを強要されていると感じやすいので、あくまで訓練でその都度今何を練習するかを先生が明言してから行動した方が目的意識、理解度も上がると思う。
また、大人数でいると周りが見えなくなりやすいが、周りの邪魔になっていないか、車の音等を俯瞰して状況を把握しつつ集団行動する訓練は身の安全を守るためにも必要と思う。
給食当番は、低学年から数十人全員にいきわたるか感覚を磨いているって凄いなと思う。小学生はそういう色んな感性を身につけることが大事なんじゃないかなと思う。
そうやって子どもの忍耐力を付ける機会も減っていくのよ。無駄を省くだの省エネだの効率化だの、我慢という遠回りを知らずみんな自分のことばかり考えて生きていけばいい。
私は子供の頃、貧血で体育座りのあと、「立て!」、と言われて一気に立ち上がると、目の前真っ暗、へたりこんでました。
恐怖の体育座りでした。
学校長始め先生方は端的に話しを終わらせれば問題ない。体育座りに限らず、問題は同じ姿勢を長時間保持する事。立位だろうが座位だろうが、同じ姿勢を保持するのは身体負荷が大きい。だから除圧をするし姿勢を変える。
要は話しを短くし、長くなるのなら常識の範囲内で姿勢を自由に変えられるようにすれば良いだけである。