幼い頃、長崎原爆で九死に一生を得た男性から「命の恩人を捜してほしい」と託された記者。果たして恩人は見つかるのか―。
平成最後となる「終戦の日」を前に、西日本新聞に掲載された過去の記事を紹介するシリーズ。これは連載「シゲちゃん」の後編である。
原爆孤児となったシゲちゃん。「長崎原爆戦災誌」(1985年刊行)によると、福岡県久留米市の陸軍病院で養育された「五、六歳の男の子」は「看護婦の兄弟で子どものいない家に引き取られて行った」とされるが、その後のことは分からなかった。
次の有力情報は、6歳で別れた「命の恩人」を捜す池田道明さん(78)が、かつて耳にした「年の頃が合うシゲちゃんが久留米の飲食店で働いていた」という、雲をつかむような話を確かめる過程でもたらされた。
「出前係が『シゲちゃん』って呼ばれとった」
「あのシゲちゃんじゃなかですかね」と話してくれたのは久留米市でラーメン店を営む広瀬孝さん(51)。「小さか頃、食堂で手伝いばしとったとですが、出前係が『シゲちゃん』って呼ばれとった」。気立てが良く常連客に人気だった。
もう一人、同市の西頼護(にしよりまもる)さん(60)は、行きつけの食堂で出前の代金とお釣りの計算ができず、主人に叱られるシゲちゃんを覚えている。「満足に学校に通えなかったんだと思う」。それでも懸命に生きていた。
2人の記憶によると、目鼻立ちがはっきりして、身長は170センチほど。家族はおらず独身で、いつも愛称で呼ばれていたという。しかし、このシゲちゃんと池田さんが捜す恩人は、同じ人物だろうか。
『長崎で原爆に遭った』
シゲちゃんがいた食堂とは、同市篠山町にある55年創業の「沖食堂」。創業者(故人)の娘である小川美佐子さん(69)によると、初代の出前係だった。
「懐かしか、覚えとるよ」。シゲちゃんは、創業者が受け入れていた養護施設出身者の一人で、名前は「いけすえ しげなり」。長崎大の記録で分かった「横田」の姓ではなかった。だが、シゲちゃんには戦後に養子縁組されていた可能性がある。
小川さんはもう一つ覚えていた。「昔、シゲちゃんが一度だけ『長崎で原爆に遭った』と話しとったんよ。つらかろうと思って、深くは尋ねんかったけど」。細い糸がつながった気がした。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180813-00010001-nishinp-soci
みんなのコメント
戦争に負けるとは、こうゆうことだね軍幹部が勝手に始めた戦争で、一番被害こうむるのは国民幹部は負けりゃ腹切ればいいってノリ冗談じゃないオマエらだけでやりなさい・・・って、国民が言えないのが戦争人間は物事を忘れる動物で、
同じ失敗を必ず繰り返すそれは世界有史を見ればわかるだからこそ、こうゆう語り部は絶対に必要少なくとも、これから起こる過ちを先延ばしにする力はある良くも悪くもネット社会上手くいけば永遠に過ちを先延ばしすることも可能かも・・・って、自分の子供たちには話してます。