15日の「終戦の日」は、平成では最後となる。戦争の記憶は遠ざかるばかりだが、年月を経て浮かび上がる事実もある。西日本新聞が伝えた過去の記事から、長崎原爆が投下された当日の状況をあらためて紹介したい。(以下の記事は2017年06月10日付で、内容は当時のものです)
長崎原爆投下直前の1945年8月9日午前10時53分、原爆搭載機の動向を察知した日本軍は空襲警報を出したが、長崎には届かなかった。記録上だけの警報だったとみられる。
投下目標が小倉から長崎に変更されたことを把握した後にはラジオで退避命令を呼び掛けたが、それも原爆がさく裂した直後。2度出された“警告”は市民避難には結び付かず幻に終わった。
戦時下の主な警報伝達としては、軍管区司令部からのラジオ放送、自治体によるサイレン、各家庭への電話連絡などがあった。いくつかの伝達方法を併用し、市民の情報共有を徹底していたとされる。他にも主要な軍需工場には軍との直通電話があり、警報などの情報が直接伝わる仕組みができていたという。
旧防衛庁が編集した「本土防空作戦」(1968年発刊)によると、8月9日の記述で、国東半島から北九州地区に向かう爆撃機B29を2機発見し、西部軍管区司令部が午前10時53分に空襲警報を発令。「(6日の)広島への原子爆弾投下の状況から原爆搭載機であろうと判断された」とある。
しかし-。9分後に被爆地となる長崎にはこの警報は出されなかった。爆心地から3・3キロの旧制長崎中の生徒だった深堀譲治さん(86)は、動員学徒として校内の軍需工場にいた。「何となく飛行機の音のような音がしておかしいなとは感じたが、原爆投下まで避難の指示はなかった」と振り返る。
「空襲警報が出された記憶はない」同1・3キロの自宅にいた被爆者の丸田和男さん(85)によると、敵機が島原半島上空を飛行していることを知らせるラジオ放送を職場や家庭で耳にした被爆者はいるが「直前に市民に空襲警報が出された記憶はない。投下間際になっても緊急事態だとは感じなかった」と語る。
8月9日の記録にはまだ不明な点も多いが、県や市に残る記録では午前7時48分に警戒警報が出た後、同7時50分に空襲警報に切り替わり、同8時半には解除になっている。
その後は原爆投下までの間に空襲警報は出されていないことになっている。解除後、ほとんどの市民は避難の必要性を感じなかったとみられる。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180815-00010000-nishinp-soci
みんなのコメント
妻のお母さんは長崎出身だけど直前に佐賀のほうに逃げたから兄弟ともども生きのびた。原爆投下のちょっと前から米軍はカラの爆弾みたいなものをやけに落としてたらしい。
それは『ここから逃げろ』と言ってるようにしか思えなかった。と。そして実際、米兵に言われたんだって。『よくわからないがここは大変な事になるかもしれないから逃げろ』と。それを信じて逃げたようだ。妻のお母さんにとっては米兵はお菓子くれたり遊んでくれたりと悪い印象は全くないんだってさ。
日本(及び他の国々)のことは完膚なきままに破壊したくせにやらせの9.11をいつまでもギャーギャー騒ぐみっともない国
日本の軍上層部が悪いとかいう奴いるけどアメリカに洗脳されすぎ、どんな事情があろうと最終的にやった方が悪いんだよ