障害者の「生」否定するな ALS患者・支援者ら訴えhttps://t.co/Hhm18WFvG6
難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の患者から依頼を受けて殺害したとして、医師が嘱託殺人容疑で逮捕された事件。ALSの当事者らはショックを受けつつ「障害者が生きることを否定してはいけない」と訴えます。 pic.twitter.com/P0rtvTTEuG
— 朝日新聞デジタル編集部 (@asahicom) July 23, 2020
ネットの反応
いやあなたは目に見える身体障害者だからそういうことが言えるんです。
目に見えない障害者は否定しかされません。
それが原因で悪化してしまう人自殺する人も少なくないです。
だったら、と言うかだからこそ安楽死は必要なんです。
私個人の意見ですが、今回のケースの女性の方はとても頑張って生きていたと思います。
11年からの闘病できっと何度も死にたい、まだ頑張って生きよう、たくさん悩んだと思います。体は動かない中頑張って生きていて、もうこの世に未練など無く、満足したのではないか、
むしろ死んで生まれ変わった自分の人生を楽しみにしたいと思ったのではないか、、と思いました。
「障害者を否定している」ではなく、「障害者となった人生を頑張って生きた」と言ってあげたいです。
もし、自分も同じような事が起こったら、最後は自分の望む日に楽に死にたいです。
このようなことでも、思想のためなら利用するんだね。
自分がもし身体が動かなくなって意識だけはっきりして、苦痛で死ぬに死ねず『安楽死』の選択があるなら頼りたくなると思う。
死ぬのは痛いし怖い。
病気になった人に罪はない、それを助ける事も罪では無いと思う。
どんなことがあってもって想像力のないやつが使うべきではない。
問題をすり替えてる気がするけど。
何というか、難しい問題
無責任かもしれないけど、こればっかりは障害を持つ人達にしか分からない苦しみだからな・・・
子供に辛い思いさせて、負担を強いても生きたいと思う親がどのくらいいるのだろう。
もちろんそれでも生きたいと願う方を否定する訳ではないけれど。
自分だったらはっきり意識があって子供が苦しんでるの分かっていながら死を選択できないって地獄でしかない。
今回の安楽死は障害者の生を否定してのことじゃない。患者本人の意思であるのだから。障害者の生を否定するなと言うのであれば、むしろ出生前診断で障害を持つと診断された胎児を人工中絶することではないのか。
生まれてくることすらできないのだから。尊厳死は否定されているのに
中絶は肯定されているのは何故なんだろう。どちらも命の選択に変わりはないのに…
亡くなった方は 自分が望んでおられたのでしょう。主張が違うと思います。
個人個人が選べる世界がいいと思う。
誰もが生きる権利を。
誰もが尊厳死の権利を。
障害者健常者どっちも「生」を否定してはいけないかもしれないけど「死」を否定するのもいいことでは無いと思う。
死を与えるのは苦痛だし、負い目になるだろうけど、痛みや苦しみから抜け出すためにそれを選ぶ人もいる。
生きる権利があるなら死ぬ権利があってもいいのではないかと思う。今の日本ではダメだけど。
人によって違うでしょ。私も死なせて欲しいと思うかもしれない。
まあ当事者は視野も狭くなるしポジショントークしかできない
いずれにせよ生きたいと思う人は生かされ続けることに変わりはないが、多様な人生観・死生観・尊厳の在り方の議論を封殺してよい理由はない
これって生きる事を否定したんじゃなく
患者の意思に医者が寄り添った結果じゃ無いの?
私は個人的な意見です。もし自分が同じような病気や事故で寝たきり。呼吸器がなければ生けていけない。親も高齢、私も独身です。頼れる身内もいません。
その時は安楽死、尊厳死を希望します。生かされてるだけで、一人では何もできない。生きてる意味はありません。死んで楽になりたい。楽にさせてほしいです。
普通の医者は患者の症状に対処するのが仕事であって
患者を支える存在ではないと思う。
エンターテイメント作品ではよくそういう描写があるけど
医者にそこまで高望みするな。
「否定」はしてないんちゃう?
むしろ死の選択を「肯定」している
という風に感じるけど。
論点が全く違います。
生を否定するのと同じくらい、生を強要するのもよくない。
障害者の「死」を否定するな。死にたいと望む人間がいることを否定するな。尊厳ある死が存在することを否定するな。
まず、人の考えを言葉で定義する事はできません。なぜなら、一つ一つの語彙や熟語に込められた認識は各人すべて違うからです。
ですから、例えそれを定義し法制化したとしても、それがすべての人の思いに当てはまるはずもなく、当てはめる必要も感じません。無理やり当てはめるなら、逆に強制・強要と言う罪に該当するかも知れません。
だからこそ争いが起こり裁判が発生する訳ですが、たとえ最高裁で方向性が明確になっても、それが人の手によって判断された以上、それも正しいとは限りません。
だから「生きて行く事を支えるのが医師の務め」と言われても、それはあなたの考えでしょ? としか言えません。個人の人生に責任を持てる他人など誰もいない以上、生きたいと思う人を生かそうとするのであれば、死にたいと思う人が死ぬ方法も検討されるのが、本当に人間を尊重した生かし方なのだと思います。
私も障害者。聴覚障害。でも生きて来て何が楽しくて何で生きているのか分からない。自殺何度も考えた。他の人に負けまいと勉強スポーツ独自でこなした。
教師は一切教えてくれなかったから。反対に教師学友は学校来るだけ無駄だから早よ止めろ!早よ死ね何て心無い対応する。理解してくれたのはほんの一握り。
街中でれば差別の嵐。熊本に住んでいるが熊本の人は障害者を卑下、馬鹿にした態度取る人だらけ。五体満足の人は1度不自由な身体になってみないと理解出来ない。生きたいのに勝手に医師が命絶つなら医者何て何の為に存在している?
直る見込み無いから見切り付けるのと生かしてる限り医療機関の負担額かかるからさっさと殺してしまう?熊本のみならず日本の医者はお金無い者は絶対診察治療してくれない。医者自ら死ね何て言う日本の医療機関は国会議員と変わらない。だから医者嫌いで病院必要以外は行かないんです。
否定していません。本人が希望したら安楽死の道があっていいと思います。
安楽死で来世に賭けなさい。
話のすり替えがすごいな。
政治家っぽくなったやん。
尊厳死や安楽死は生を否定するものではないでしょ?
その人がその人らしく最期を迎える事が何故いけないのでしょうか?
障害云々ではなく、治療の施しようが無く体力が落ち最後の時を待つような生活をするのであれば最期の選択肢があっても良いと思うけど、、、。
件の患者と医師が「死」に至るまで、どのくらいの時間を過ごし、それぞの意見や考えを交換したのかは、自分には分からない(二つ返事というこはないだろうが)。
だが、想像するだけだが、この患者にしても、医師にしても「生」を肯定してただろうし、その裏返しで「死」も肯定していたのかもしれない。二つの肯定の中で、最終的に選択したのが「死」だったのだろう。
そう考えれば、この事件は「生」を否定しているとは思えない。
いずれ、私たちも「死」を迎えるのであるから、その「死」をどう迎えるか、そこに向かってどう「生」を紡ぐかを考えて、行動していくことではないだろうか。
知人や親類縁者にALS患者がいるわけではないし、自分自身も障害を抱えているわけではないのであくまでもその苦しみは想像しかできないのですが、なにも障害者が死んでしまえばいいということを言っているのではないと思います。
自殺する人もそうですが、もちろん思いとどまるよう説得したとしても本人が死ぬことでしか救われないと考えて実行されてしまえばどうしようもありません。自分で自分を助けようとしない・できない人は誰も助けられないのです。
この方も今は疾患を受け入れているかもしれませんが、仮にALSが治せる病気となったら治さないんでしょうか。治すのならALS患者として生きることは不本意ではあるというのが本音ではないでしょうか。
真の意味でALS患者の気持ちを理解できる時が来てほしくはないですが、とにかく絶望に満たされてもなお生きろというのは、あまりにも残酷ではないでしょうか。
生きたい障害者なら勝手に生きればいいじゃん。
苦しみに疲れた病人とは最初から話が違うだろう