山形県の酒田へ法事に訪れる途中、新潟県の村上駅で下車した。日程に余裕があったので特急を使わずに鈍行列車に乗りながら、たまには行ったことのないところで降りてみようと思いついたのである。
駅で自転車を借り、観光協会でマップをもらってあてもなくサイクリングをしていると、古い町屋が連なる通りに出た。これはずいぶん素敵なところではないか。
名酒「〆張鶴」(しめはりつる)を生んだ土地とは知っていたが、予想以上の雰囲気だ。(氏家英男)
村上の「酒田屋」という和菓子屋
無計画に訪れたので、メインの観光スポットは空振りに終わった。日本で最初の鮭の博物館であるイヨボヤ会館は営業時間を終えており、山頂まで往復四十分ほどかかる村上城跡にも自転車を返却する都合で登ることはできなかった。
それでも、三面川(みおもてがわ)の土手を散策したり、天井の梁から数百本の塩引き鮭が下がっている店の様子を見たり、酒屋さんで人気の地酒を聞いたりするうちに、これはあらためて来るべき街だと思った。
地元の人に聞くと、見ごたえのある町屋は市民主導で再生したという。平日だったせいか、観光客らしき人影はあまり見かけなかった。実にもったいない感じがした。
通り沿いに和菓子屋があり、自転車を止めて入ってみた。店名は「酒田屋」という。老松(おいまつ)という蒸しどら焼きを買ったついでに、気まぐれに屋号の由来を聞くと、店の人から意外な答えが返ってきた。
「ここの創業者が酒田から来た人で、そこから取ったみたいですよ」
お店のホームページを見ると、創業は寛政五年(一七九三年)。初代が酒田から来て、二二〇年以上も同じ場所で商売を続けているとある。現在の店主は、十代目の酒田屋弥次衛門さんだ。大変な歴史だが、酒田とはまた何という偶然か。
北前船がつないだ日本海の港
しかし考えてみれば「村上の酒田屋」というのは、まったくの偶然ではなかった。村上市街から六~七キロほど行くと岩船という港町があり、江戸時代には北前船(きたまえぶね)の寄港地のひとつだった。
北前船とは、大阪(大坂)から瀬戸内海を抜けて、日本海側の外港に停泊しながら北海道と行き来した、いわゆる西廻り航路の貨物船のことである。
出羽の米を“天下の台所”大坂に運ぶ外海ルートとして、河村瑞賢が西廻り航路を確立したのが一六七三年。北前船は大坂から瀬戸内海を抜けて、日本海側の山陰から北陸を経て酒田と行き来していた。そのうち蝦夷地の松前や江差まで航路を延長し、昆布や鰊(にしん)なども運ぶようになった。
船は港で積荷を売りながら仕入れもしており、人やモノがダイナミックに行き来した。「動く総合商社」といわれるゆえんだ。村上の酒田屋だけでなく、大阪の人たちが大好きな昆布だしや京都の鰊そば、紅染め、東北の造り酒屋なども、寄港地間の交流が形として今に残るものである。
そういった歴史的背景を知らない人から見れば、「なぜこんな“裏日本”の辺境の港町に豊かな文化が点在しているのだろう?」と不思議に思うかもしれない。しかしそれは米国の影響下で、戦後の高度成長期に栄えた太平洋ベルト工業地帯から見た発想でしかない。
太平洋側が工業化で発展する中、日本海側との経済的格差は拡大し、「裏日本」は侮蔑的な響きを帯びるようになった。しかし近世以前の大陸や半島との交流もあわせて考えると、もともとはあちらが「表日本」だったという言い方すらできるのではないか。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180804-00010000-danro-life
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