【ぼくたちの離婚 Vol.3 家族が得意じゃない】「僕は“ささやかな日々の幸せ”とか“家族と一緒にいてなにげない時に幸せを噛みしめる”みたいな感覚が、わからないんです」
そう話す橋本亮太さん(仮名/39歳)は、長身で垢抜けた文化系メガネ男子。髪は黒々、腹の出っ張りは皆無で、タイトに着こなしたポロシャツがよく似合う。波乱万丈の人生を歩んだアラフォーにはとても見えないが、彼には9歳の息子とともに某県で暮らす別れた妻がいる。彼は毎月、安くない養育費を支払う身なのだ。
◆両親の不仲と寮生活
東京の中堅出版社で文芸編集者として働いている橋本さんは、編集者らしく話しぶりは知的かつ論理的で明晰。表情豊かで気遣いもできる人という印象だ。こんな人が「ささやかな日々の幸せがわからない」と口走るのは、少々意外に思える。しかし順を追って彼の生い立ちを聞くと、納得がいく。
「実家は愛知県の片田舎です。僕は物心ついた時から、両親の関係に温かい愛情を感じることはありませんでしたね。父は名古屋に本社がある大手企業に勤める高給取りのサラリーマンでしたが、明らかに外に女がいたんです。
会社までの通勤時間は1時間ちょっとでしたが、あるとき父は名古屋市内にマンションを借りて一人暮らしをはじめました。家に帰るのは月に2、3回程度。その後、僕が大学生のときに退職して事業をはじめました」
家族をかえりみず好き勝手に生き、自己実現にひた走る父。対照的に明らかに不幸な母の姿を、橋本さんは目の当たりにしていた。
「結婚当初から父からの愛がないことに気づいた母の生きがいは、僕と姉の子育てだけ。だから彼女は子育てが終わると、生きる軸がなくなってしまったんです。離婚しようにも、専業主婦が長かったので働いて自活することもできない。なんて不幸な人なんだろうと思いました」
橋本さんは、そんな両親を見てひとつの結論にたどりつく。
「無理に結婚を続けても、いいことなんてひとつもない。ごまかしごまかし続けて年を取ってしまったら、取り返しがつかなくなる。母の姿を見て、つくづくそう思いました」
「家族みんなで仲良く団らん」といった幼少期の経験を経ないまま、橋本さんは寮制の中高一貫校に入学する。その寮生活も大変だった。
「寮内の人間関係がとにかくつらかった。学校の教室だけならまだしも、四六時中一緒にいて同級生と交わりすぎてしまうと、他人の嫌な面がすごく見えてくるんですよ。仲良かった奴とちょっとしたことで突然仲悪くなったりとか。そういうのが自分だけでなく、寮内で常にモザイク状に発生していて、心の休まる暇がない。心底疲弊しました」
橋本さんが6年間の寮生活で形成したのは「他者に対する諦念」だという。
「他人と交わった気になっても、本当に交わることなんてできない。人は結局ひとりなんだなって。18歳の時点でそう仕上がってしまったんです」
◆誤った責任感で結婚
高校卒業後、他県の超難関大学に合格した橋本さんは一人暮らしをはじめ、ジャズ研のつながりで知り合った実家暮らしの近隣女子大生・優子さん(仮名)と交際をスタートする。橋本さんは19歳、優子さんは2歳上の21歳だった。
「僕の大学と優子の女子大の間には、よくカップルが成立していました。女子大のほうは僕の大学より偏差値が10以上低かったんですが、アクの強い学内の女子にいかず、昔ながらの良妻賢母な女子が多い優子の大学に目が行く男は多かった。僕もそのひとりです」
優子さんはそれほどジャズが好きというわけでもないし、何かのカルチャーにものすごく詳しいわけでもない。自己主張もあまりない。気立てが良くて穏やかで優しい女性だそうだ。
優子さんは卒業後、地元建設会社の事務職に就職。いっぽうの橋本さんはその2年後、現在も勤める都内の出版社に入社する。ここで遠距離交際になるかと思いきや、優子さんはあっさり会社を退職して橋本さんを追いかけ、上京。派遣社員の仕事をしながら橋本さんとの同棲をはじめる。そして数年が経過した。
「優子は、結婚したい、子供がほしいとしきりに言ってくるようになりました。僕としては、結婚する気持ちはこれっぽっちもなかったですし、子供にもまったく興味がありませんでしたが、20代前半から付き合った女性を30歳手前で放り出すなんて、さすがにひどいなと思って……。あまり覚悟もなく結婚しました。僕が27歳、優子が29歳の時です」
「責任感が強いんですね」と言うと、橋本さんはすかさず「誤った責任感ですけどね」と自嘲気味に答えた。
◆子供ができてもダメだった
橋本さんによれば、優子さんは「家族との暮らしや日々の小さな幸せを大切にする人」だった。しかし、この一般的にはとても好ましく人間味ある彼女の価値観に、橋本さんはどうしても共感することができなかった。
「両親の不仲とストレスフルな寮生活を経験した僕は、家族であるというだけでひしひしと感じる幸せとか、日々の生活からにじみ出る幸福みたいなものを、まったく解さない人間だったんです。ただ、それでも目立った波風は立ちませんでした。今思えば、彼女が僕に合わせてくれてたんでしょうね。当時の僕はまったく無自覚でしたが」
しかし結婚から3年後に子供が生まれたことで、価値観のズレは一気に顕在化する。
「子供は欲しくなかったんですが、優子の望みに応えてやりたくて。それに、僕は期待したんです。家族であるというだけでひしひしと感じる幸せみたいなものを今までは感じられなかったけど、さすがに生まれてきた子供の顔を見れば感じられるのではないかと。世間ではそう言われてますし、新聞や雑誌の記事にいくらでもそう書いてあるでしょう」
しかし、期待は無残にも裏切られる。
「ダメでした。いくら子供の顔を見ても、前向きな責任感とか、沸き立つような愛情とか、そういう強い感情が生まれてこない。世に聞く“この子は俺の遺伝子を受け継いだ俺の子だ!”みたいな高揚感みたいなものをまったく感じなくて。……僕は欠陥人間でした」
当然のことながら、母親である優子さんは橋本さんに父親の役割を――精神的にも、家事分担的にも――求めてくる。しかし橋本さんはそれに応えられない。夫婦仲は目に見えて悪化していった。
「いま離れて暮らしている9歳の息子のことは可愛いと思います。ただ、僕が息子を可愛いと思えるようになったのは、息子にある程度自我が芽生えてきて、人としてなにか面白いことを言いはじめてから。妻に対してもそうなんですが、ただ無条件に家族であること自体に幸せを感じる、ってことがどうしてもできませんでした」
寮生活で橋本さんが悟った、「他人と交わった気になっても、本当に交わることなんてできない」「人は結局ひとり」が思い出される。
「それでわかったんです。ああ、僕は“家族が得意じゃない”んだと」
◆一生の苦痛か、一生の十字架か
息子さんが1歳になったばかりの時に、橋本さんは離婚を申し出た。優子さんは、たとえ両親が不仲でも息子のために離婚は絶対に避けるべきだと抵抗する。しかし橋本さんの決意は揺るがない。
「その当時も依然として冷戦状態だった自分の両親のことが頭をよぎりました。不仲な両親の姿なんてものを子供に見せるわけにはいかない。それに僕自身、ごまかしごまかし結婚生活を続けたら、いずれ母のように人生の取り返しがつかなくなる。怖かったんです」
3年の別居を挟み、離婚。当然、息子さんは優子さんが引き取った。橋本さんは養育費の支払いに加え、生活力のない優子さんのためにローンでマンションを購入し、離婚成立と同時に優子さんに譲渡(!)。橋本さんの人生設計は大きく狂った。それから5年たった今も、橋本さんは罪の意識にさいなまれている。
「妻子には当たり前の幸福を与えることができませんでした。一生背負う十字架です」
気立てが良くて優しい妻、健やかに育つ息子、仕事も順調。他人から見れば、何ひとつ不満のない家族のはず。しかし、“家族が得意じゃない”橋本さんにとってそれは、多額の金銭的負担と一生の十字架を引き受けてでも避けたい種類の苦痛だった。橋本さんは離婚を決意した当時の心境を思い出して、こうつぶやいた。
「この苦痛が一生続くと思うと……すぐにでも逃げ出したくなったんです」
現在、橋本さんは父親と断絶状態にあり、数年来口をきいていないという。そんな橋本さんは母親の側につき、有利な条件で父親と離婚できるよう弁護士に相談中である。
<文/稲田豊史 イラスト/大橋裕之 取材協力/バツイチ会>
女子SPA!
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180804-00864544-jspa-life
みんなのコメント
この男性の全てに共感できます。
私も似たような環境だったので、結婚や出産に全く興味がありません。欠陥人間という方も沢山いるでしょうが、こういう人間もいるんです。
この男性は、養育費と自分の住まないマンションのローンまで払って、充分過ぎるぐらい責任果たしてますよ。どうかご自身をあまり責めないで欲しいです。