神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市)で入所者19人が殺害されて、7月で3年がたった。起訴された植松聖被告(29)は神奈川新聞の取材に「能力が劣る障害者に生きる価値はない」と主張し続け、かたや、能力が優れた「超人」を称揚する。翻って問うてみたい。互いの能力を自由に競い合い、比較や評価することに慣れたわたしたちは、知らぬ間に、期せずして、誰かを傷つけてはいないだろうか。
そして、競争の渦中で、自分自身が苦しんだ経験はないか。東京大会開幕まで1年を切ったパラリンピックを実例に、能力主義の暗部を見つめた。(川島 秀宜)
車いすや義足のアスリートが背中から翼を生やし、神々しく輝く。国際パラリンピック委員会(IPC)が制作を発表した初の公式ゲームのキャラクターだ。
タイトルは「ザ ペガサス ドリーム ツアー」。人気ゲーム「ファイナルファンタジー15」でディレクターを務めた田畑端さん(48)が手掛ける。
制作元のJP GAMES社によると、プレーヤーはパラスポーツに挑み、秘められた「エキストラパワー」(特殊能力)を引き出しながら成長していく。
パラアスリートのペガサスのような「進化」を、オーラをまとうように翼で表現したという。若者を取り込み、東京大会を盛り上げる狙いだ。
IPCのアンドリュー・パーソンズ会長は「傑出したパラアスリートたちの能力がどのように表現されているのか楽しみにしている」とコメントした。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190826-00010000-kanag-soci
ネットの反応
個人的にはパラリンピックには興味がない。
パラに選手を送ることの出来る国は、やはり平和で比較的豊かな国に限られる。
そのような恵まれた国をベースに感動的なストーリーに仕立て上げるのは避けで欲しい。
競技スポーツとしてのスタンスを大きく逸れると、戦禍等で四肢を失った、より障害が大きくより貧しい多くの人々の存在を棚上げにした、感動ポルノの押し付けになりかねない。
超人化というよりサイボーグ化と行った方が的を射てるような気がするな。パラ用品の技術の進歩は凄まじく、100メートル走なんてあと数年でパラの選手が健常者の記録を越えるって言われてるし、そうなるとなんかモヤモヤする。
幼稚園でやってたみたいに
お手々つないで一緒にゴールってのを
オリンピックで見られる訳か
それは健常者だって一緒。
それに超人化とは言え、その義肢は操れなければ「ただの板か棒」だろ。
どのパラアスリートも、最初どころか長いこと練習して、まずは立つことから開始して、歩けるようになって、やっと走れるようにする。記録やパラリンピックはその延長でしかない。
その努力を無視して格差だ超人だと言う資格は無い!誰もが「そうなれる」わけではないんだから。
義足や車椅子が進化するのは健常者のスポーツの用具が進化していくことと同じだと思うけど。
あと障害者スポーツは道具次第で決まるからスポンサーが集まるか次第って言う人もいるけど、健常者のスポーツだって稼げる選手や結果出せる選手に多くスポンサーが集まって金が集まるんだし、そこはどっちも一緒だよ。
障害者スポーツ選手でスポンサーが付いて稼げるって非常に素晴らしいこと。
これは健常者のスポーツ選手も同じく言われるが、やたらお金持ってそうだとなぜか叩く人がいる。
すべて同じは難しいよ。
きっちり末端までみんな平等の社会が可能であればそれは理想だけれど、
実際は人それぞれ、生まれ持った能力も、性格も、環境も、経済力もみんな違う。
障害があってしかも能力ゼロでも大富豪であればあらゆるサポートが受けられたり、多大な貢献ができるかもしれない。
一方、健常者で類稀な運動能力とIQ200を兼ね備えてたとしても、
孤児で、その日暮らしに必死であれば、能力を生かす場はなくなり、
鬱を発症すれば、生活保護に転落する可能性だってある。
違いは、能力だけじゃないんだよ。
色んな要素が合わさって、結果につながるわけでしょ。
パラリンピックをやる意味って、世界に啓蒙して障害者の存在を知らせて、問題を提起する意味合いもあると思う。
だから、やめるべきではない。
不公平だからって、なんでもかんでもクレーム入れてやめさせるとかおかしいから。
一層の頃、オリンピックやめちゃえば?
自分はむしろパラリンピックの方が面白くなるんじゃねえかなぁと思ってる
オリンピックなんて勝手にやっとけよ
但し、他人には迷惑をかけるなよ
出来ないことを出来ようにする努力もしない怠け者がいっぱしの口を聞くな
人間の有能・無能の九割以上は身体能力でなく頭脳で決まる。
パラリンピックを見て能力に悩むのはナンセンスで、受けた教育が間違っているということ。
悩む頭があるのなら、興味ある分野を勉強すればいい。
この記事に対するコメントでは「パラリンピックが競技性を追求することを肯定している」ものが多いようです。健常者だって同じだろう、という意見ですね。
でも、この記事の主旨はやまゆり園の事件から3年たって「障がい者は能力がないから殺してもいい」と考える殺人者を生み出した「能力主義」に疑問を投げかける記事であって、その視点が抜けているコメントが多いような気がします。
その視点の中で、発祥当初は福祉的観点で開かれた障害者スポーツが時代と共に能力主義に変化していくところに、差別の根源がないか振り返る記事です。
「自分はできない、劣っている」と思う人がいるということは「あいつはできない、劣っているから排除せよ」という差別をも生むかもしれない、ということです。健常者にはないでしょう。
障がい者だから差別される。「健常者だって能力主義」という発言自体、既に障がい者差別なんだということに気づいていない人の発言。
ライターの「障害者」という言葉の中に、身体、知的、精神全ての障害をずた袋に突っ込んでしまう姿勢こそ、健常者の無意識の優越感から来る差別意識なんではないかと。
競技性が増して超人化していくのはある程度しかたのないことだと思うけど、ゲームにするのはさすがにちょっと違う気がする。健常者もパラの選手に憧れたりするのはいいことだから線引きはかなり難しい。
障碍者でも健常者でも能力や適性に個体差があるのは当然。
オリンピックで、スポーツにコンプレックスを持っている人に対する配慮なんて発想出てくるだろうか?
私はそのコンプレックスを持っている人間だがそんなこと全く望まない。
人とは現金なもので同じ境遇にならないと同じ目目線にはならない。
だからこそ啓蒙活動は必要なのであるが、健常者がオリンピック選手を見る目というのはその真逆の心理が働いていることになる。
極端な話、義足などの技術が高まりパラリンピックの100㍍走のタイムがオリンピックを超えたりしたら注目は集まるだろう。
そこがパラリンピックの目的ではないが。
いい人ぶってパラリンピックを持ち上げるのはやめたらいいと思う。人間の限界を見るのがオリンピック。条件が様々なパラは不要。
義足の人なんかは、テクノロジーの進歩で近いうちに健常者を超えて行くだろうな。ピストリウスがその始まりかな。
今後、義足の素材や作成技術、そして使用者の動作技術が向上していけば、義足には疲労物質が出ない利点もある分、特に中長距離で、健常者では到底かなわない記録が続出するかもしれない。
そうなったら自ら脚を切断して義足にする選手も出てくるかもしれない。それはドーピングに似たようなものの気がするけど、どのようにルール作りをして行くんだろう。
どこの世界にも完璧な平等などありえない!
パラリンピックに限らず、持たざる者は挫折し、受け入れていくしかない。あまり理屈で考えないほうが良いと感じた。
鈴木とかいうオーサーは的はずれなこと言ってるね。トップアスリートへのプレッシャーなんて障害があろうが無かろうが関係ないし、パラのアスリートに対しての義肢の技術サポートなんてF1と同じで、端から広く一般に還元するためにやってるものやし。そんな的はずれな事言ってたらいろいろ明後日の方向に行ってまうで
知るかよ。
健常者だろうが障害者だろうがダメなヤツはダメ。
ダメ基準で考えるの止めて欲しい。
社会主義、共産主義にならないと無理じゃないのか?
競争原理をつかって社会の便利や進歩をしている。
できる人を尊ぶのは、仕方がない一面はある。
少なくとも、できなくても努力をしている人を尊ぶべきであり、努力をしなくてできない人を尊ぶべきではない。
能力の格差の問題と、努力の格差の問題を混同することは絶対にいけない。
結局のところ、高くて品質の悪い製品を買う人はいないのだから。なんだかんだ人は人に対して、厳しいのだから。
パラリンピック云々ではなく、能力主義の世界で、能力やチャンスに恵まれなかった人がどう生きる目的を持つべきかという話なんだろうね。
植松被告は、意思疎通すら難しい障がい者にはそれは無理と断じて極端な行動に走った。ただ、我々は彼の行動が間違っているということは断言できても、じゃあどうしたら良いのかという解は未だ出せずにいる。
たしかにパラリンピックで活躍するアスリートを見ることで、己の無力感を感じる方は少なからずいるとは思います。
ですが、逆に自分も頑張ってみようと勇気をもらった方もいるはずです。
人間が人間である以上、格差は必ず生じます。全員が幸せになれる世界はまだ夢の途中なのです。
パラリンピックは主に運動機能を争う大会です。運動以外にも何かしらの能力選手権が発展すれば嫌な思いをする方も減るのではないでしょうか。
競争によってより良い製品が生まれるんじゃない。 面大きなプラス面あるやろ。
昔、知人に「 ボルトの記録抜くのは、パラ選手しかいない。あのブレードシューズはドーピング扱いにしないければ。」と言ったらウケました。近い将来、パラリンピックとの境界をなくし、体重別のような単なる種目の違いとして扱われることを夢見ます。
現行ルールのまま射撃あたりで車椅子利用者に通常メダル採ってほしいし、水泳バタフライ辺りを改良して、上半身だけの泳法種目作って共に競ってほしい。
そりゃあ金メダルとれば
賞金やテレビ出演など、
破格の見返りがありますからね
この記事の言わんとしている事とコメントに書かれている事には多少の食い違いがあるように思えます、たとえば「格差」などについてコメントでは、上手い、下手などの素質や才能の視点から見られていることが多いように見られますが、この記事では、素質や才能ではなく様々な障害の「機能による格差」について取り上げていると思います。
各種目、機能別にクラス分けはされていますが、勝ち負けやメダル獲得の点、競技を興行としてみた場合に、有用な障害者とその他になっているのが現状です。
極端な例として車椅子テニスでは、腹筋背筋で上体を自由に動かせる人と上体が前に倒れたら自力で起こせない人が同じルール同じ舞台で戦います。椅子に座って床に落ちている物を拾ってみてください、後者は上半身を動かせないのです。勝ちの見えない後者が脚光を浴びることはまず無いでしょう。
この記事ではそういった「格差」の問題を言っていると思います。
>「わたしはなんて能力がないのだろうと、自分を責めてしまう一般の障害者が現れないだろうか」。
アスリートは血のにじむ様な努力をしている訳です
何の努力もせずに、わたしはなんて能力がないのだろうと悲観するのは変です
憧れるなら、そういう事を言う前に同じぐらい努力をすべき
「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのなら、それはまだ努力とは呼べない。」
王貞治さんの言葉ですが その通りだと思います
見たい人が見ればいい 健常者のコメントなんて必要ない