過激な時代の到来、レプリカが正義だったあの頃!バイクが大好きな人とお喋りすると、「あの頃はすごかった」「ハンパなかった」「過激だった」というワードがたびたび飛び出し、嬉しそうに話しています。あの頃とは大抵が、1980年代から90年代にかけてで、バイクブームと呼ばれた時代です。
いったい何がハンパなかったのでしょう。まず、オートバイの売上げを見ると、ピークだった1982年は329万台にものぼり、2017年の販売台数は35万7000台でしたから、およそ9倍という驚異的な数字です。
その頃、人気を支えたのがレーサーレプリカというジャンルです。サーキットを走るレーシングマシンのように、空気抵抗を減らすためのフルカウルで車体は覆われ、ライダーも前傾姿勢となって身をかがめてライディングします。
コーナーではスライダー(空き缶など即席のヒザ当てもよく見かけた)を装着したヒザをイン側に大きく張り出し、その接地感覚で車体の傾きを探るというレーシングテクニックを、その頃の一部ライダーは峠道などでし、
専門誌ではその瞬間を収めた写真を投稿してもらうコーナーが人気を博すほどに加熱しました。峠道はバイクであふれかえり事故も多発。当然ながら警察も出動して社会問題にもなったほどです。
もちろん、そういったライダーはごく一部で、合法的にスポーツ走行が楽しめるサーキットも連日超満員に。首都圏に近い筑波サーキット(茨城県下妻市)では、走行枠を確保する予約の電話が殺到するほどで、ライダーたちはスピードを競うことに情熱を注いでいました。
それはホンダの起死回生の一撃だった!
そんな彼らが熱狂したマシンであるレーサーレプリカですが、選択の基準は運動性能に直結する絶対的なパワーと軽さでした。1983年にスズキが、
従来は鉄だったフレームをアルミで作り量産車世界初のアルミフレーム、RG250ガンマを発売したのを皮切りに、各社が対抗馬を次々にリリースし、毎年のようにモデルチェンジを繰り返して性能を競い合ったのです。
そして、いまなお伝説的なのが“ハチハチ”=1988年式NSR250R。それまで他社に負けっぱなしだったホンダを、一気に頂点へ高めたモデルでした。
まずホンダは83年1月に、V型3気筒の2ストロークエンジンで最高出力40PSのMVX250Fを発売しましたが、翌2月に発売されたヤマハRZ250R=43PSや3月デビューのスズキRG250ガンマ(45PS)に押され、セールスは振るいませんでした。
84年5月にエンジンをV型2気筒としたNS250Rで追撃を図るも、85年11月にヤマハがTZR250Rを登場させると人気となり、ホンダも86年10月にNSR250Rを出し混戦となっていきます。
この初代NSR250R(MC16)からホンダのレーシング部門であるHRCが携わり、市販レーサーRS250と同時開発するという過激ぶりが始まりました。ライバルよりいかに速いか、目標はただ一つだったのかもしれません。
ちなみに先述した機種はいずれも2ストロークエンジン車で、主戦場は250ccクラス。当時は401cc以上のバイクに乗るための限定解除免許は合格率6%程度と言われるほどの狭き門のなか、現在の普通2輪免許に相当する中型限定2輪免許(中免)を持つ多くのライダーが上限の400ccか、車検のない250ccを選んだのでした。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180816-00010002-kurumans-bus_all
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